スキップしてメイン コンテンツに移動

クリント・イーストウッド監督作品『インビクタス/負けざる者たち』




「インビクタス/負けざる者たち」オリジナル・サウンドトラック
サントラ
SMJ (2010-02-03)
売り上げランキング: 1349



 イーストウッド新作。昨年もイーストウッド作品には毎度泣かされてしまったのですが、今回もブワッと涙が出てしまいました……。素晴らしかったです。これが『ミスティック・リバー』や『許されざる者』を撮った人の作品なのか、とちょっと拍子抜けしてしまうほど爽快な感動作品に仕上がっているように思われます。スポーツの世界には時折“劇的な展開”というのがありますけれど、そのステージを南アフリカというひとつの国に拡げながら、この映画は“劇的さ”をホンモノのドラマとして呈示することに成功している。





 そこでは物語があくまでノンフィクションっぽく流れていくのですが、明らかにフィクションであろう、というエピソードが挿入されています。この挿入が素晴らしいスパイスになっている。このとき描かれるのは「スプリングボクス」を憎んでいたはずの黒人のこどものなかで、ラグビーの存在がどんどん大きくなっていく過程なのですが、これは強烈に泣かせます。無垢なこどもの魂の美しい部分が濃縮されたすごく良い演出だったと思います。もしかしたら、その演出には「貧しい国のこどもはきっと心がキレイなハズだ」という偏見があるのかもしれませんが、それはさておき、この無垢さは天使的なものとさえ感じられます。





 その天使的な美しさは、ネルソン・マンデラという大人物の偉大さと対比されるものでありましょう。物語の中でマンデラはとにかく好人物で、大らかな人物として描かれます(政治よりラグビーを優先してしまうようなむちゃくちゃな人物でもあるのですが)。その存在感は、父親的なものとして捉えることができるでしょう。しかし、物語の序盤ではその偉大さは理解されがたいものとして現れてしまう。ここで無理やり物語をキリスト教的なものとして読み替えるのであれば、スプリングボクスの主将、フランソワ・ピナールや、黒人のSPたちはまさに父(=神)の偉大さを人々に伝えるための伝道師としての役割を果たしていた、と言えるでしょうか。そうであるなら、この物語は伝道師たちの受難の物語と捉えるのも必然的です。





 個人的にとても印象に残っているのは、冒頭で刑務所から出てきたマンデラが乗ったパトカーが黒人地区と白人地区を隔てる道路を通過していくシーンと、スプリングボクスの選手たちが街中をランニングしているシーンでした。前者では国内の分裂がはっきりと映し出され、後者では白人も黒人も一緒になって走っている選手たちを応援する融和の状態が描かれます。ふたつのシーンは時間的にはとても離れているんだけれども、後者を目にしたとき、強烈なほど前者がフラッシュバックしてしまいました。これはすごいなぁ……とため息をつかざるを得なかった。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...