http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061018/p2
昨日『否定弁証法』を読み終えた勢いで感想みたいな文章をエントリしてみたところ、こんな過疎ブログにしては多すぎるブックマーク数がついて内心びっくりしていました。が「フランクフルター陰謀論(笑)」の余波があったせいなのですね。後で読み直したら酷く分かりにくく、無意味な文章だったので「マズいかな……(『アドルノ入門』なんてブクマコメントいただいちゃってるし…全然入門でもないし……)」と思ったりしたのですが、ここで晒されている八木秀次と西尾幹二というお二方*1のフランクフルト学派理解(?)よりはマシかなぁ。それにしても「フランクフルト学派だ――そうです」の流れはツボすぎ。いくらでも流用できる気がする。
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20061014#1160828600
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/marxsyugi2.html
しかし、これはすごい*2。よくもまぁこれだけバイアスをかけて読めるものだな……と思いました。「現在私達が持っている『人間性』を完全に破壊したところで初めて何か新しいものが始まる」とか言って、昨日私が書いたことのまるで正反対の位置にある解釈が書かれています。まぁ、私が読んだフランクフルト学派(に位置すると言われてる人たち)の本は限られていて、限られてるっていうかアドルノとホルクハイマー*3しか読んでないんだけど、こういう解釈は可能といえば可能な気もします。
ちょうど今、私はホルクハイマーの『理性の腐蝕』を読んでいる途中*4。この本の序文にはこんな文章が書かれています。
本書の目指すところは、現代のわれわれの産業文明の根底にある合理性の概念を研究し、この概念が産業文明を本質的に腐敗させる欠陥をもっているのではないか、ということを探ることにある。
さて、どうでしょうか。「『理性的なものを次々と破壊していく』という思想」の本のように思えてきませんか?と言われても私自身がそのようには絶対読めないのでわかんないんだけど。
アドルノの『否定弁証法』からも少し引用してみましょう。
普遍性に踏みにじられた特殊者のユートピアに対する共感、すなわち、実現された理性が普遍者の特殊な理性を凌駕するようになった暁にはじめて存在するであろうあの非同一性に対する共感が彼(ヘーゲル)には欠けている。
ここだけ抜粋してみると、まぁ難しいこと言ってて何を言ってるのかわかんないな……と思いつつ、話を進めます。こんな風に言うアドルノアドルノを読んで「ユートピアとか危なそうなキーワードが出ているし……はっ、アドルノって国家を転覆させて、ユートピア作ろうとしてんのか!アドルノってユダヤ人なのか!!うわっ、ユダヤ人による世界征服の思想か、これは!!!」と読むことも(かなり無理があるけど)可能だと思われるんですね。
しかし、このような曲解ではなく、ホルクハイマーとアドルノの著作をマジメに読んで「そうか合理的理性なんかダメなんだ!」とマジに受け取ってしまう人もいると私は思います。レベル的に言えば曲解している人たちと同じ程度のバカ。むしろ性質の悪さで言ったら曲解派以上かもしれません。アドルノとホルクハイマーの思想に触れ、我々が考えなくてはいけないことは「《合理的理性》と《その批判者》、どっちが正しいか」ではないのです。これは宮台真司と北田暁大の対談集『限界の思考』に「《ハーバーマス-ルーマン論争》で『どっちが正しいか』とか言っているヤツはバカ」と出ているのと同じような感じ。だからこそ『否定弁証法』は「限定的否定」だったわけで「合理的理性、ダメ、絶対」となったら従来の弁証法(同一性の思考)と全く同じになってしまいます。どちらが正しいともいえない宙吊り状態(『超安定』と言っても良いかもしれませんが)が重要なのです。
限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学posted with amazlet on 06.10.21宮台真司 北田暁大
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今「うわっ、これすげぇ良い本だなぁ……」と思いながらパラパラとめくって該当箇所を探そうとしてたんですが見つからない……。そして探しているあいだにこの話をどこに着地させて良いのかわからなくなってしまったので、強引に終わります。とりあえず『限界の思考』は良い本!フランクフルト学派についても分かるよ!!
*1:私はどちらに関してもよく知りません
*2:これもhttp://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/hurankuhurutogakuha.htm。
*3:アドルノと一緒に『啓蒙の弁証法』を書いた人
*4:先日池袋であった古本市で630円でゲット。信じられない出会い
でも案外笑って済ますことはできない問題じゃないかとも感じます。アドルノにしろデリダにしろ、本国のマジョリティーからどう思われているかというのは、あまり日本だと知られていないけれど、それなりの危険思想だと思われているのではないでしょうか。例えばデリダの政治哲学的議論というのは、革命以後の仏政治思想のおそらく本流からは全くはずれた議論を展開していると思われるし。そのような王道から外れた思想を辺境の日本人がご宣託のように受容して良いのかということは、もう少し考えるべきだと思います。
返信削除コメントありがとうございます。私は西欧の思想状況などてんで分からないため、犬さんのコメントから「ご宣託のように受容してよいのか」という問題よりも「『それなりの危険思想』としての読めなさ」という部分に(自分も含めてですが)問題を感じました。ある意味「アレゲ」と呼ばれたフランクフルト学派理解のほうが「正しい」のかもしれない(どのように受け取るかは、自由だと思われますし)。上手く言えないのだけれど「政治思想をガチで読めない(思想がリアルな政治と完全に切り離されている)」という感じがする。それは危険というよりかは、なんだかとても寂しいような感じです。
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