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マクロな世界で戦うアドルノ






 表紙が良いですね。ホルクハイマーの前に並ぶマルクーゼ、アドルノ、ハーバーマス(アドルノの顔が酷い)。このポップなイラストに象徴されるように、内容も易しい。日本語で書かれたアドルノ関連の二次文献では、驚異的な簡潔さと平明さを持っている気がする。アドルノに興味をもたれた方は細見和之のアドルノ―非同一性の哲学と併読し、アドルノの著作に突入すればスムーズに事が進みそうだ。この二冊があれば、アドルノの思想の一番ミソの部分を「理解」することができる。けれども(藤野寛がまえがきで言うように)アドルノの著作は「理解」するためだけではなく「味わう」ものなのだから、一次文献を熱心に読むことに是非挑戦していただきたい。


 このブログでは、アドルノについて何度も書いているため、改めて書くようなことはあんまりない。一点あるとしたら、この本に書かれているアドルノの姿は、「私が読んでいるアドルノ」よりももっと「闘ってる場所」が広い感じがした。私が細見和之のアドルノ本を先に読んでしまったから自然とそういう風に読んでいるのかもしれない。細見本のアドルノはもう少しミクロな世界で闘っている感じがする。そういう意味で細見本(ミクロなアドルノ)と藤野本(マクロなアドルノ)の両方を読むことの有用性が発生する。ホルクハイマーを同時に扱っていることが、必然的にアドルノをマクロな方向で描かせているのかもしれない。


 アドルノの講義録『哲学の用語』にはこんなセリフがあるそうな。「哲学というものは、あるテーマの集合ではない。むしろある精神の姿勢、意識の姿勢なのだ」――私の関心領域とは全然関係ないけれど、痺れるような名言だ。「俺が好きなものはすべてメタル」と豪語するメタル・ゴッド伊藤正則に匹敵するような力強さ。





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