スキップしてメイン コンテンツに移動

アドルノは静かに眠れない。






 『迷走する音楽』という本を宮下誠は書いており「現代美術を専門とする先生が何故現代音楽について書いているのか」とは前から疑問に思っていたのだが、値段が高かったので手を出さずにいた。そんなところに似たような内容の新書が出たことを知ったので読んでみることに。


 スペクトル楽派(原初をシェルシとするような)が無視されていたり、ヒンデミットの新古典主義を「誤読」していたり「ああ、やっぱり専門家の書くものじゃないよな……」と思うところがいくつかあったけれど、内容としては悪くない本だ。一応、20世紀音楽は俯瞰できる。個人的な趣向からいえば、ルイジ・ノーノの扱いは酷すぎる、と思ったけれど(極左の政治的メッセージを取り扱った作品のみの紹介って……)。


 たくさん作曲家の名前が載っているから「現代音楽って聴いてみたいな」という人には良いかもしれない。面白そうなものを見つけたらCDを買えばよろしい……と細かく文句を言いつつ本を紹介してみましたが、本当はこの本を読みながらめちゃくちゃイライラしました。「これは大学の先生が書くような本ではないなぁ……」と。まえがきの部分で「私は音楽を専門としないので……」と言い訳をしているのがまずダメ(じゃあ、書くなよ)。


 それより気に障るのはこの本の目論見の中途半端さだ。


 筆者は「感情移入できる音楽=わかる音楽」とするのに対して、シェーンベルク以降の大部分の音楽を「感情移入できない音楽=わからない音楽」と置いている。「《20世紀音楽はわからない》けれど、《わからない》ままに《おもしろく》感じさせること。これは《わからない》けれど《面白い》と感じさせること」がどうやら目論見としてあるらしい。そういう態度はまぁ良い。個人的にもなんだかわからないものは好きだし、筆者も述べているように、ポスト・モダンの文化的状況は「畸形」を好むらしいしね。


 でも、やっぱり「感情移入できる音楽=わかる音楽」としているところが気に食わない。それこそ一番解体されなければいけない問題なんじゃなかろうか、と思う。音楽に限ったことではないけれど「共感した」とか「感動した」とかそういった感情移入的な言葉で、何らかの感情を言いくるめてしまうこと、あるいは「感情の(言葉による)囲い込み」ができないものを拒絶してしまうことが、私は問題な態度だと思う。


 もう一点。筆者はたくさんの楽曲の解説をしている。けれども、それは「わからない20世紀音楽」という混沌を、「面白く感じさせる」ために秩序だてているだけのように思えた。これがやっぱりこの本の目論見の中途半端さだと思った。もっとも「面白くさせる」には、いくぶん語彙が貧困な感じもするのだが。特に頻出する「前衛していてよい」という褒め言葉(?)には失笑させられた。





コメント

  1. 前略 
    『20世紀音楽 クラシックの運命』について大変素晴らしい批評をお書き下さり、心から感謝しております。そちら様のブログは以前から存じ上げており、折々拝見させていただいておりました。大変充実した内容でいつも感嘆しながら拝読しておりました。さて、著者からいきなりコメントが書かれて驚かれていると思います。大変申し訳ございません。実はこのたび、『20世紀音楽』の続編、と言うより、そちら様のブログをはじめとした幾つかのブログの批評に答える一書を光文社ではない別の出版社から出したいと思い、就いてはそちら様のブログの文章を拙著にそのまま転載させていただけないかと思いコメントを書かせていただきました。小さな出版社でお礼は現物(できあがった本)で、としか申し上げられないのが心苦しいのですが如何でしょうか?お許しいただけるでしょうか?もちろん、著作権のあることですから掲載時にはそちら様のお望みのお名前で掲載させていただきます。それを含めてもし、掲載を許可してくださるなら上記メールアドレスにお返事いただけないでしょうか?もし、駄目なようでしたらお返事は結構です。貴ブログのますますの発展を祈りつつ。宮下誠拝 stolze@tbd.t-com.ne.jp

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...