スキップしてメイン コンテンツに移動

クリント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』




オリジナル・サウンドトラック Changeling
クリント・イーストウッド
ジェネオン エンタテインメント (2009-02-04)
売り上げランキング: 53478



 クリント・イーストウッドの新作。日本公開前からものすごく楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい出来栄えで、若干盛り込みすぎな部分があるものの(ヒューマン・ドラマとサスペンスがごった煮になっていたりする。しかもサスペンス部分は超ハードで本格的に恐ろしい)、中盤で号泣してしまったし、やはりエンディングはイーストウッドらしくモヤモヤっと心にわだかまりが残る感じとなっていて大満足だった。そして、今回も音楽の使い方が異常。イーストウッドが書く映画作品については過去にエントリをあげているけれども、イーストウッドはあえてこういう風に音をつけているのかどうか、ものすごく気になってしまう。悲しいときには単調の音楽をつける……というような常套句的演出がほとんどない。常にあのなんとも言えないアブストラクトな音楽が流れているので、それはそれで不穏さを煽ってくる。警察がアンジェリーナ・ジョリーを貶める部分では、本当に不快な気持ちになってくるのだが、この不穏な演出がこの不快さを増長しているのではないか、と思えるほどだ。しかし、生理的な部分へと訴えかける力の強さもはや、この監督の作風なのだろうなぁ、と思うところもあり、むしろこのモヤモヤ感や不快感に拍手を送りたくなってしまう。





 この作品から私が読み取ったものは主に2つ。1つは「システム」についてである。序盤から中盤にかけての物語では、腐敗したロサンゼルス市警によって、アンジェリーナ・ジョリーが、人権であるとか尊厳であるとかを蹂躙されまくる過程が描かれる。そこでの警察権力の姿は、村上春樹がスピーチで批判をおこなったシステムの姿と多く重なる部分があるのだが、この様相をもう少し社会学的な表現に置き換えると「システムの暴走」という風に換言できるであろう。そもそも警察権力のシステムとは、人権を守り、法を守らせるためのシステムとして社会におかれたものであろう。警察とは、この目的のために時に暴力を行使することが許されている特権を持つシステムである。





 しかし、この映画内で描かれる警察システムの姿は、その本来の目的が忘却され、警察システムのために警察システムが作動する、というような言わば「自己目的化」が徹底されたものである。警察システムが振舞う論理の無茶苦茶さはあまりに強引過ぎ、笑いさえ引き起こすものであるのだが、この点は、いかにカフカが現実を如実に描いていたのか、を論証するかのようだ。中盤以降でこのシステムの暴走は、他のシステムによって抑制される。このとき警察システムの前に現れるのが、教会であったり、法であったりするところは、実に興味深い。まさに「事実は小説より奇なり」といったところである。警察システムの暴走を厳しく非難する弁護士の姿がものすごくカッコ良く撮られている。この部分はまさに警察システムが、法システムのサブシステムに過ぎないことを明示的にしたものであるように思えた。そう言った意味で、勧善懲悪的な物語がこの映画のなかには含まれていると言えよう。しかし、教会が警察に対抗するものとなっている状況は、あまりにも今私が生きている社会とは異なっていることもあってとても面白く思った。時折、日本の警察には不快な思いをさせられることがあるのだが、この映画を観て態度が改まったりしたら良いのになぁ、などと淡い期待を覚えたりする。





 2つめは「魂の救済」についてである。映画のなかには、3人の救済されるために行動を起こす人物が登場する。彼らはそれぞれタイプがまったく異なっていて、ある人は救済のために罪を告白し、ある人は逆に罪を告白しない。そして最後の1人は救済のために、希望を持ちながら実ることのないであろう努力を続ける。しかし、救済を求めるひたむきさの部分については、いずれも同じなのだ。私はこのひたむきなものの表れに、ものすごく感動してしまうところがあった。このようにひたむきで、純粋な感情の表出は物語のなかでしか味わえないだろう、という感じがする。実際に、救われたかどうかは置いておいて、私はそういった行動を支持したい、と思う。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」