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ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ブロディーの報告書』




ブロディーの報告書 (白水Uブックス (53))
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
白水社
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 ラテン・アメリカの作家のなかでも、このホルヘ・ルイス・ボルヘスはちょっと毛色が違った存在だと思っている。ガブリエル・ガルシア=マルケスやカルロス・フエンテス、あるいはバルガ・リョサたちが想像力を外向きに外向きに発展させていき、熱が放出されるような幻想を描いているのに対して、ボルヘスはなにか想像力の進む方向がまるで逆で、内向きのように感じるのだ。彼が書いた数多くの短編に触れるたび、どれも迷宮に足を踏み入れたような不安が湧く。主題はいくぶんつかみづらく、晦渋な文体で書かれた、まるで韻文のような(これは彼のキャリアのはじまりが詩人であることと関わっているのだろうか?)スタイルには、ほとんどホラーに近い――以上のようなことをボルヘスの『砂の本』、『伝奇集』、『不死の人』といった作品集を読んでいたときに考えていた。だが、この『ブロディーの報告書』(1970年)を読んだら、前述した作品集のどれとも少し異なった印象を受け取ってしまった。





 「成功したか否かはともかく、作者が書こうとしたのも、直截な短編であった」とまえがきでボルヘスは語っている。この作品にはアルゼンチン的な主題の代表であるガウチョが多く登場し、ほとんどリアリズム的に描かれている。このような描き方を彼が言う「直截な短編」とみなして良いかどうかはわからないが、個人的にはこの時点でかなり驚きであった(ヘミングウェイが選びそうな主題である)。しかし、ここに神話的なモチーフや、幻想が練りこまれているのだから一筋縄ではいかない。なかでも『ロセンド・フアレスの物語』という作品は、実に不気味である。これはボルヘスが酒場で出会った老人が語る、自分の若かりし頃の昔話という体裁をとる。老人はかつて怖いもの知らずのガウチョだった。しかし、あるとき、自分に喧嘩を売ってきた別なガウチョのなかに「自分の分身」を見出してしまう。これが老人がガウチョの世界から足を洗うきっかけとなる。突然に自分を映す鏡のような存在(ドッペルゲンガー)が現れるところが、かなりあっさりとまるで良い話のように語られているのが余計に恐ろしい。




 『ブロディーの報告書』を読んだあとに『砂の本』を少し読み返したのだが、ここで取られた手法が『砂の本』にも引き継がれているようにも思えた。『砂の本』になると晦渋さや薄暗さが増した印象があるが、これは幻想と現実のバランス感覚が前者のほうに傾いたかのようだ。逆に『ブロディーの報告書』は後者に重きを置く。読みやすいのはおそらく『ブロディーの報告書』なのだが、現在絶版中なのがとても残念だ*1。「ボルヘス入門」にはうってつけのような気がするのだが。表題作「ブロディーの報告書」も、「スコットランド人宣教師が書いたカフー族(おそらく実在しない民族であろう)の国の滞在記」を翻訳したもの、ということになっていて、ボルヘスの妄想力が全開で最高である。



語り伝えられるところによれば、ネルソン兄弟のうち弟のほうのエドゥアルドが、1890年代にモロンで病死した兄クリスチャンの通夜の席で、すすんでこの話をしたということだが、これはどうも眉唾くさい。(『じゃま者』より)



 それからこれは、改めて、の感想なのだがボルヘスの短編はどれも冒頭の一文がむちゃくちゃに面白い。いきなり「なんだこれは……」というところが話が始まるので、毎回驚きながら読むことができる。「アルゼンチンといえばボルヘスばっかりで……」という批判的な声もあるようだが、面白いものは面白いのだ。




*1:ネットでも古本が安く入手できるみたい。私は神保町にてこれを300円で購入した





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