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莫言『転生夢現』(上)




転生夢現〈上〉
転生夢現〈上〉
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莫 言
中央公論新社
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 id:ayakomiyamotoさんの猛烈なレコメンドで興味を持って『転生夢現』を読み始めた。まだ下巻に手をつけてはいないのだが、半分まででだいぶ書いておきたいことが溜まってきたので記しておく。言うまでもなく、ものすごく面白い作品であるので、そうしたくなったのである。





 この莫言という作家について「ガルシア=マルケスに影響を受けたマジックリアリズムが……云々」と言われているそうだけれど、この作品を読む限りは、ラテンアメリカの作家というよりかは、むしろラブレーあたりに影響を受けているのではないか、と感じた。中華人民共和国成立直後の土地改革によって殺害された地主がさまざまな動物に生まれ変わり、人間であった頃に治めていた土地のその後を人間ではないものの目線から語る。ロバや牛や豚の目線から諧謔的に語られる世界は、中華人民共和国の政治的変遷とリンクして変化していく。





 語り口は柔らかでユーモラスであるのだが、かつての共産主義に対しての批判的なまなざしは強く、直接的であるように思われる。この直接性はガルシア=マルケスからはあまり感じられない。この本を読んでいて思い起こすのは『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。この『転生夢現』をマジックリアリズムと呼ぶのであれば、この形容はラブレーにも適用できるのであろう。ルネサンス時代にマジックリアリズムは存在したのであり、このような手法を今更取り立てるのは、言わば「語るための契機」に過ぎない。手法は内容ではない、ということを改めて感じたりもする。





 小説は中華人民共和国の歴史そのものと言っても良いのかもしれない。私はほとんど現代史を知らないのだが、この本に書かれている中華人民共和国の様相には強く興味を喚起された。海を挟んですぐ隣の国について、これまで何も知らなかった点を恥ずかしく思いつつも、その隣国がとんでもない歴史を持つことを知ったときの驚異の大きさが恥ずかしさを勝る。というか、生まれ変わった地主の息子たちのその後の成長や愛憎劇よりも、物語上に登場する中華人民共和国の政治のほうが面白く感じられるほどで、現実の中華人民共和国の政治それ自体が笑えないギャグの水域に達しているように思った。





 上巻は文化大革命の末期で終わっているのだが、文革前の大躍進政策もすごい(これらの歴史的事実についてはwikipediaで調べれば、詳細があるので改めてここでは書かない)。「ファシズムもコミュニズムも、理想が現実の遥かに先をゆき、その結果暴力が蔓延する点では同じ」というようなことをアーレントかアドルノの本で読んだのを思い出してしまう。腕を組み、首をひねりながら考えてしまうのは「どうしてそのように無茶な政策を推進してしまったのか」という点に尽きる。真っ当な頭を持つ人間であれば、金属工学の専門家がいない農村に溶鉱炉を作ることなど無謀であることなど、すぐに理解できるはずだ。にも関わらず、それが行われる。あらかじめ失敗が運命付けられたようなものが、どうして現実に行われたのか。





 考えられるのは2点。1点目は為政者(つまりここでは毛沢東)「成功するだろう」と本当に思っていた、ということ。2点目は「無理だ」と思いつつも、体裁的な問題により引っ込めることができなくなった、ということ。どちらにせよ、強い理想が現実を見えなくしているところがある。これは日本が過去に起こした戦争についても、同じことが言えるかもしれない。多くの日本人が「負けると分っている(はずの)戦争をなぜおこなってしまったのか」と反省するのを目にするが、これには少々引っかかるところがある。歴史を事後的に評価する地点では、どんなことでも言えてしまうのだから。本当に問うべきなのは「負けるだろう、現実的ではないという判断がなぜできなかったのか」ということではないだろうか。





 地主の生まれ変わりの動物の目線から語られる村の人物の多くも、その理想へとコミットしていく。しかし、彼らの多くが本当に些細なことで失脚したり、挫折をしたりするところにも「純粋な理想」の恐ろしさのようなものが表れているように思う。例えば、胸に輝いていた毛沢東のバッジをうっかり便所に落としてしまうことによって、それまで村の指導者だった人物が一気にキツい労働を強いられる立場に落ちてしまう。ここからは「もしかしたら、その人物が失脚しなければ、わずかでも理想が現実に近づいていたかもしれないのに、純粋な理想から外れる些細な出来事によって、自らの首を絞めるような状況」を読み取れる。





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