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ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #2






 今日はメイスン&ディクスンの最初の船旅の過程などについてメモしておく。端から「メイスン&ディクスン線の話だから舞台はアメリカなんだろうな~」と思ってたら、最初はイギリスから始まってるんだよね。で、メイスン&ディクスンがコンビを組んで最初に目指すのは、スマトラ島なんだよ。スマトラ島のベンクーレンってところを目指していた。ベンクーレンはスマトラ島のココ(Wikipedia)です。そこで金星の日面通過という現象を観測しようとしたんだ。これは金星が太陽の正面を通過する、という現象で。グリニッジとそこから遠く離れたところとで観測することによって、太陽視差が求められる。これによって太陽との距離が計算できるようになるんだってさ。小説内でもこのあたりの天文学用語への言及があるけれど、調べてみたら超うまくまとまってるサイトがありました(→金星日面経過・解説)。このサイトには1761年にメイスン&ディクスンが観測した日面通過も記録されています。





 ただ、彼らが目指したベンクーレンは当時フランス海軍によって占領されちゃってて、最初から「いけるかどうかわからん」という感じだった。メイスン&ディクスンも「いや、いけないっしょ? フランスのモノだもん」と思ってるんだけれども、メイスンが所属している王立協会の返事は「ふざけんな、ベンクーレンにいけ」という感じ(途中でフランス海軍に襲われてプリマスに停泊し、船を直している間にこんなやりとりが発生する)。でも結局、ベンクーレンにはたどりつけなくて(日面通過には間に合わなかった)ので、当時オランダ領だった希望岬で日面通過を観測します。このあと、メイスンは聖ヘレナ島(当時はイギリス領)に滞在していたマスクラインという天文学者のお手伝いをしにいったりします。これは大犬座のシリウスまでの距離を測る仕事……らしいんだけれども、ちょっと調べたぐらいじゃわからなかった。その後、メイスン&ディクスンはイギリスに戻ります(18章からイギリスに戻る)。




 この直前(17章の終盤)で、メイスン&ディクスン線を引く仕事の話がでてくる――「二人の未来を巡る一つの可能性」として。今日メモしようと思ったこととはズレるけれど、ここでは「縮約」という神学・哲学用語が登場します(P.263)。この言葉(原文では、contractionとなっているはず)はP.68の王立協会からの手紙にも登場しています。最近ではもっぱら、ルーマニ屋(ニクラス・ルーマンの本を読む人たち)の方々がDQNアトラクターとして使用している用語ですが(その場合、訳語には縮減が割り当てられます)、本来は神学・哲学用語。本来、宇宙にはあらゆる可能性が含まれてる(神様は全能であり、それ文字通りはすべてが可能である存在だから)……にも関わらず、「世界」はひとつの選択をしているようにしか見えない(この可能性が実現され、あの可能性は実現されない)。このとき、あらゆる可能性のなかからあるひとつが選択されることを「縮約」と呼びます。で、我々が生きてる「世界」っつーのは、無限な可能性が縮約された結果なのね。以上は、クザーヌスの議論の要約みたいなものです*1。18世紀の科学者のあいだではこうした世界観は一般的だったんでしょうか? 哲学史・神学史の充分な知識があるわけではないから、気になるな。





 大幅に脱線しておりますが、ロード・ノヴェルなので地名などはググりながら読みすすめると、頭のなかに物語の地図ができあがってきて良いと思います。




*1:「クザーヌス 縮減」で検索したらニコラス・クザーヌスとパースペクティヴ性(メモ) - Living, Loving, Thinkingが勉強になるな、と思いました





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