今年に入ってから作曲家が書いた本しか読んでいない(アドルノもまた作曲家である。元作曲家と言ったほうが正確だが)。武満徹の著作集第2巻を読了。第1巻はかなりまとまった文章を収録しているが、第2巻は雑誌や新聞での短い連載などをまとめている(これらの文章は自身の音楽についてよりも、他人の作品、それも音楽ではなく絵画などについて語られたものが多い)。内容がところどころでかぶる。
「すなわち、事実すべて、一つの作品にとっては、唯一の解釈、ただ一つの演奏しか存在しません」というフルトヴェングラーの言葉が引用されているのだが(これはフルトヴェングラーの著書『音と言葉』からのものらしい。だいぶ前に読んだきりだが、ちょっと読み返して見ようかとも思う)、これに対する武満のコメントが大変興味深く読めた。
ここで言われている「唯一の演奏」、あるいは「正しい演奏」を判定するものは、その時演奏されている「音楽」だけであることは自明であって、するとその時演奏されている音楽は、また、無限に存在するものであるとも言えよう。音楽は、絶対無二であると同時に、無限である。
これはやはり武満の「音楽思想家」としての飛びぬけたセンスを物語るコメントであると思う。私からすれば、アドルノと共鳴するものとして読むことが出来るし、またグレン・グールド、あるいはグールドと同じカナダ出身のマーシャル・マクルーハンなどとも重ね合わせることができる(この本のなかで、武満がマクルーハンに言及する箇所はあった)。この本で読むことが出来る、武満の音楽にとどまらない越境的な知性にはいまだに同時代的なものさえ感じる。
「越境」でいえば、第1巻に収められた文章(1969年のインタビュー記事)ではビートルズとマザーズ・オブ・インヴェンション(フランク・ザッパ)を同列に扱っていたのも驚かされた。当時のザッパが日本においてどのような評価を受けていたのかわからないが、かなり早くにその音楽の斬新さに気がついていたということは間違いなくいえるだろう。
それより驚かされたのは「武満が死ぬ1ヶ月前に繰り返し見ていた映画はタランティーノの『パルプ・フィクション』だった」というドナルド・キーンの証言だったのだけれども(これはWikipediaにも書いていない武満の姿だ)。
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