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神崎繁・熊野純彦・鈴木泉(編) 『西洋哲学史2: 「知」の変貌・「信」の階梯』

1巻に引き続き、2巻を読む。以下、目次を転載。
序論 再開の哲学
1 ヘレニズム哲学
2 教父哲学
3 中世の言語哲学
4 イスラーム哲学:ラテン・キリスト教世界との交錯
5 盛期スコラとトマス
6 中世における理性と信仰
7 志向性概念の歴史
8 様相概念
転載してみたものの知らない人にはなにが書かれているのかさっぱりわからないであろう。位置付け的には「中世哲学」の巻である。「ヘレニズム哲学」は、ギリシア哲学の教科書的に役立つ地図のように読めるし、「教父哲学」はギリシアと中世を繋ぐもののように読める。3の「中世の言語哲学」からいよいよ中世哲学について語られることになるのだが、下準備はバッチリできてますよ、という感じである。1巻よりもどっしりと、多角的・多重的に中世哲学が語られていて大変勉強になった。

とかく中世哲学はとっつきにくいイメージがあり(暗黒の中世、というクリシェがあるけれど、中世哲学は魔境、と思っていた)わたし自身「唯名論と実在論の対立が……」とか言われても「???」となってしまい、「唯名論」という字面からも「えーっと、なにが『唯』、『名』だけがある論なんだっけ?」と思い、それが普遍のことだと言われても、普遍がなにかわからない……といった体たらくであったのだが、これ読んだら、これまで整理できなかったのが一挙にクリアになった気がする。本書では「様相概念」を担当している山内志朗の『普遍論争』を途中で投げ出した僕でも「普遍論争」がどういうものだったのかわかった気になった! と怪しげな通信教材的なテンションで本書の勉強になり加減をアピールしておきたい。

個人的なハイライトとなった章となったのは「中世の言語哲学」、「イスラーム哲学:ラテン・キリスト教世界との交錯」、「中世における理性と信仰」。いずれもコアな議論だけでなく、テキストが書かれたり、読まれたりした背景まで教えてくれる。「中世における理性と信仰」にいたっては、哲学の背景が全面的な主題となる。ヘールズのアレクサンデル、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラ、トマス・アクィナス。この中世を代表する思想家が、どういう事情でパリ大学で活動していたのか……云々といったお話は、思想だけをこねくり回しているテクストよりも、ずっと思想をわかるものとして、こちら側に近づけてくれる気がする。

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