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オイストラフ映像集



http://youtube.com/results?search=oistrakh


 mixiを見ていたら、Youtubeにソヴィエトを代表するヴァイオリニスト、ダヴィド・オイストラフの映像がアップされていたことを知る。おどろくほど充実したライブラリ状態になっているので必見。特に気になったものをあげておく。





http://youtube.com/watch?v=Jk786KRIkQw

 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番のカデンツァ部分*1。1967年の映像らしい。伴奏は時期的に考えてロジェストヴェンスキーかコンドラシンだと思う。聴いて確認しなくちゃわかんないけど、1967年はオイストラフがコンドラシン/モスクワ・フィルと来日したときの映像かも(だとしたら俺、音源持ってたな…)。勢い余ってハイポジが半音ぐらい上擦ったり完璧な演奏とは言いがたいけれども、最初のほうの体から力が抜けきった感のある「達人のボウイング」が美しく、何故ここまで自然に見えるのに馬鹿みたいにデカイ音が出るんだろうか、とか思う。自然に見えても実際にはヴァイオリンなんて身体的拘束を無茶苦茶強いる楽器なのだけれど、その拘束と身体との抗いの中で表現しているヴァイオリン奏者の様子というのは、土方巽の舞踏の美しさと私の頭の中では繋がっている。





http://youtube.com/watch?v=bbWHZX7VmiE

 これはオイストラフとスヴャトスラフ・リヒテルのデュオ。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番4楽章。1970年の映像だから死ぬ4年前の最晩年。zショスタコーヴィチの協奏曲でもそうだけれど、さすがのオイストラフも速いパッセージの中で微妙に音程が怪しかったり細かいところを聴いてしまえば技術の衰えが感じられる。けど、演奏の内容が濃ゆい。っていうか、こんな濃ゆい演奏をずっと続けてたら、そりゃ死ぬよ、とか思った。ロストロポーヴィチが長生きしてるのは、途中であんまりチェロ弾かなくなって、弾いても60年代のように鬼のようなテクニックで曲を弾き倒すようなカデンツァを取らなくなったのが理由なのかもしれない*2。この映像だと、リヒテルが弾き終わってサッと老眼鏡を外すのがカッコ良いなぁ。





 あんまり関係ないけれど、映像を観ていてリヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチと旧ソ連の音楽家が日本で未だに根強い人気を持っているのは、ソ連が文化的に閉鎖されていたという特殊な環境のおかげで一種の「前時代的なアプローチ」が残っていたせいなのかな、なんて思ったりした。悪く言えば大げさなルバートや、畳み掛けるような派手なストリンジェンドを我々は「熱い演奏」だとか評するけれども、それってものすごく古いタイプだと思うのだ。指揮者で言うならフルトヴェングラーとかメンゲルベルクとかのタイプ。そういうスタイルの演奏家って西側諸国だとかなり早い時期に姿を消していて録音もあんまり残ってないはず。技術の発達していた時期と重なって、古き良き時代のスタイルを録音できた演奏家だから、ソ連の演奏家って好まれてるのかも。




*1:ショスタコの協奏曲第1番はレオニード・コーガンの映像もある。http://youtube.com/watch?v=b0Wlx8OeFlo


*2:ロストロポーヴィチの全盛期はhttp://youtube.com/watch?v=qJb0GiracMoだろうか。オイストラフ、コンドラシンとのブラームスの二重協奏曲。カッコ良いぞ





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