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作曲家の個展2011「三輪眞弘」 @サントリーホール 大ホール




村松ギヤ・エンジンによるボレロ(2003)


愛の讃歌 ガムランアンサンブルのための(2007)


「永遠の光・・」オーケストラとCDプレーヤーのための(2011 世界初演)





野平一郎(指揮)


東京都交響楽団(管弦楽)


ガムランアンサンブル=マルガサリ



サントリー芸術財団が主催の日本の現代作曲家にスポットをあてるシリーズ《作曲家の個展》、今回は政治的・批評的な発言と態度によっても注目されるメディア・アーティストであり、作曲家の三輪眞弘が取り上げられた。三輪と言えば、昨年の芥川作曲賞20周年の記念コンサートの際、その直前に逮捕された作曲家の作品が上演自粛されたことに対するアゲインストとして、自作の演奏時に一切姿を現さない、会場にもこない、という行動が話題になったことが思い出される。それから3月の地震を挟んで、この日、三輪がサントリー・ホールの舞台にあがり、オーケストラ作品の新作初演後の拍手を浴びる……というのにちょっとした感慨がある。





「逆シミュレーション音楽」、「ありえたかもしれない音楽」、「新調性主義」というコンセプトに従って作曲された作品群の面白さは、知的なゲーム、謎かけのようなポエジーといったところに収まらず、音響的な面白さ、美しさに溢れている。そこでは架空の音楽技法が設定されたりするのだが、架空、というキーワードは三輪の音楽を考える上で重要なものになるだろう。架空の民族音楽である《村松ギヤ・エンジンによるボレロ》もそうだし、フォルマント兄弟名義でおこなわれる人口音声合成による歌唱も「架空の身体」を鍵盤によって制御するプロジェクトと考えられよう。19世紀のロマン主義者と対比するならば、言わばこれはテクノロジーをふんだんに利用したマジック・リアリズム、あるいは音楽を用いたファンタジー、という風にも聴こえる。





《村松ギヤ・エンジンによるボレロ》のまろやかなクラスターや《愛の讃歌》におけるダンサーの西洋のバレエやダンスなどとはまったく違った身体技法(筋肉によって全面的に統御されない体の動き)と踊れないポリリズムの奇妙さ、はどれも興味深かったのだが、圧巻だったのは《永遠の光・・》。CDプレーヤーによって架空の民謡歌手「高音(たかね)キン」の超絶的な歌唱が再生され、それにあわせてシェイカーが演奏(ひとりの演奏者が左手は4/4、右手は3/3のポリリズム)し、歌唱は次第に架空のオーケストラによる演奏に移り変わる。途中でカウベルが入ってくるものの、前半はこのシェイカーとCDプレイヤーによる演奏のみで進む。しかし、これだけで最強にノレる音なのだった。





架空のオーケストラの音楽は、その後、実際のオーケストラによって再現されることとなる。このとき、ラジカセから再生されていた音楽は、急激に広い音場へと引き出され、解像度が一気に拡大される。その効果がとても面白かった。あまりよくない表現だと思うが、パーツがミックスベジタブルのレベルで細分化されたエイフェックス・ツイン、のようにも聴こえ、そしてそれが「全体を聴取可能な複雑さ」のギリギリを攻めているように思われ、その点も好印象だった。クセナキスでは「ごちゃごちゃしてわけわからん!」と投げ出したくなるのが、ここでは「なるほど、なにやってるか、ちゃんと聴けばわかるぞ」と。平明だが複雑で、なにかに換言できる印象を持ちつつ未聴感に溢れている……この幾十もの矛盾によって、この新しい音楽は成立している。その成立の場に出くわしたことを喜びたくなるような演奏会だった。





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