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読売日本交響楽団 第508回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:下野竜也(読売日響正指揮者)


能管・篠笛:一噌幸弘


ソプラノ:天羽明惠


ジョン・アダムス/ドクター・アトミック・シンフォニー(日本初演)


團伊玖磨/交響曲 第6番〈広島〉



下野竜也の指揮による原爆をテーマにした2つのシンフォニーを取り上げるプログラム。開演まえのプレトークによればプログラムは2年前に決定されていた、というが、今年我々の社会に訪れた状況を考えると、奇妙な偶然、あるいは不気味な運命としか言い様がない。地震があって、原発がどうにもならん、いかんともしがたい、という混乱した状況下でおこなわれた4月のサントリー定期のときも「10月のプログラム、タイムリー過ぎるな……」と思ったものだ。ジョン・アダムスの作品も、團伊玖磨の作品も聴くのは今回が初めて。下野 × 読響の組み合わせは当たり外れが大きく、良かったときよりも残念に思う演奏会が多い。もちろんこれは個人的な印象であり、感想だが、客演指揮者や音楽監督が充実しすぎているために「正指揮者」が霞んでみえてしまっている、というのが現状である。マニアックな曲目ということで、空席も目立った。





ジョン・アダムスは、ポスト・ミニマル世代の旗手として活躍し、ロックやジャズといった音楽の要素を取り入れた越境的な作曲家として人気が高い、が「これはライヒとどうちがうのだろうか……」と思ってよくわからない作曲家であり、また近年は新ロマン主義的な作品もあったり、代表作のひとつ《中国のニクソン》もゲテモノ的な趣味にしか思えず「映画音楽の人が何故かゲージツ家と勘違いされているのではないか」などとひどい言葉を投げつけたくなるのだが、今回の日本初演作品を聴いてもネガティヴな印象は払拭できず、むしろ上塗りされてしまったよう。新ロマン派風の大仰な管弦楽作品、という端的な一言によって、自分のなかで無かったことにしてしまいたくなる楽曲だった。各楽器のソロはどれも素晴らしく、金管楽器が大活躍するなかで、特にチューバの豊かな音色が印象に残ったが(あまりチューバのソロってないじゃないですか)、作品は退屈そのもの。





休憩中、どうしてあれほどまでに退屈だったのか、について考えると「オーケストレーションが上手くないせいじゃないか」と思い当たる。なんかいろいろと細かい奏法をやらせていても、ごちゃごちゃしていてよく聴こえない、という状況は、振り返ったら「ソロのメロディ」と「ソロ以外でなんかごちゃごちゃしている状態」という2つの状態しかなかったのでは、とさえ思う。その後に演奏された團伊玖磨を聴いたらその思いは一層高まった。あんなにたくさんの楽器を使って、あれしか響きが作れないのか、といった点はほとんど絶望的と言っても良いだろう。目新しい音は、パーカッションの弓奏だよりだったのでは。作品のせいばかりでなく、指揮者のせいもあるのかもしれないが。





これに対する團伊玖磨の作品は、日本を代表する作曲家の円熟、というか完熟期の堂々たる筆致を感じさせる立派なもの。よく響くオーケストレーションは、オーケストラまでもが生まれ変わったように鳴りだして素晴らしかった。交響曲と言いながらも、ソリストの位置に能管・篠笛が配置され、外見的には協奏曲、さらに最終楽章ではソプラノまで登場する規模の大きさは、後期ロマン派的であるがリヒャルト=シュトラウスほど毒々しく艶やかになるわけではなく、豊かな音の響きが堪能できる作品だった。音がとにかくまろいのである。これに対して、能管・篠笛の荒んだ音色のコントラストが大変効果的で、オーケストラに邦楽器が組み込まれる必然性みたいなものが強く感じられた。最終的には天上的なソプラノに全部持ってかれてしまって、ブラヴォー、おお、ブラヴォー、ジョジョのテーマは「人間讃歌」です!(荒木飛呂彦)みたいに感動。《夕鶴》?(笑)《ラジオ体操第二》?(笑)みたいに思ってて、すみませんでした。團先生、あなたの最後の交響曲は、創作の力でひとに希望を与える作品でした。





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