アポロドーロスは紀元1世紀とか2世紀にいたという著述家で、この『ギリシア神話(Bibliotheke)』は彼が収集したギリシア神話をまとめたものだそう。なんでも現代に広く伝わっているギリシア神話とはヘレニズム文化の影響で、マイルドになってしまったそうで(これは井筒俊彦の『神秘哲学』*1でも指摘されていたかと思います)すが、アポロドーロスの本はヘレニズム以前のワイルドなギリシア神話が収められているのだそうです。彼が生きた時代はローマ時代の全盛期。にも関わらず、ここにはローマの文化も見当たらない。それは著者がこの本を正真正銘のギリシア文学を後世に伝える参考書となるように書いたからだ、と言います。ホメロスやヘシオドスへの言及もあり、単なる読み物というよりかは「ギリシア神話研究書」に近いのかもしれません。ページをめくっていくと目につくのは、ギリシアの神々の交接、強姦、殺戮、不倫、戦争、虐待ばかりが描かれており、ギリシア文化がヘレニズムと出会わなければ教育委員会が眉をしかめる結果となったことは火をみるより明らかでしょう。美しい女に出会えば、それが人妻だろうとなんだろうと犯して孕ませてしまう神々の性格はとてもではないがちょっと理解の範疇外にあるようにも思われ、古代ギリシア人はこのような暴力的な神話を語り伝えることで何を感じていたのか。神々の考えること、英雄の考えることは凡夫には計り知れないことでしょう。ほとんど狂気の沙汰の連続のなかから感じるのは、こうした神話が芸術的なインスピレーションの源泉なのだとしたら、やはり芸術家のセンスは霊的なもの、理性では理解することのできないものを受容してしまうのではないか、ということ。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

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