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内田光子 & ハーゲン・クァルテット @サントリーホール 大ホール




ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 op. 130「大フーガ付」


シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 op. 44



ハーゲン・クァルテットも気がつけば結成30周年。ヴィオラのヴェロニカ・ハーゲンの容姿がいつまでもお美しくいらっしゃるので(ファースト・ヴァイオリンのルーカスや、チェロのクレメンスと同じ遺伝子を持っているとは思えない)なんだかいつまでも若手のイメージを持ってしまう。1981年に結成当初、メンバーは全員10代後半だったのだから結成30周年でもアラフィフ、これはクラシックの世界だったらまだまだ「中堅」といった年齢であり、また「一番脂がのった時期」とも言える。彼らの溌剌とした瑞々しい音楽は以前から愛聴していたもので、この演奏のイメージがいつまでも若手のイメージとも接続されてしまうのだけれど、実演で聴くのが楽しみだった。しかも演奏されるのは、ベートーヴェンの晩年の傑作、弦楽四重奏曲第13番の初演稿というのだから期待も高まる。





1楽章ではファーストがかなりガツガツに攻めており、またハイポジが上手くとれていなかったので不安になったが2楽章以降は盤石な出来、といっても良かったと思う。なんだか実演を聴いてみて初めて、彼らの音楽の瑞々しい印象の多くがルーカス・ハーゲンの攻める姿勢、あるいは輝かしい音色によるものだったのかも、と気づけたような。ファースト以外は豊かな、落ち着いた歌い込みをしていることが多く、楽曲がそうなっているせいもあるのだが(終楽章以外)ファーストとそれ以外という対比がとても面白い。その対比が上手く馴染めるようになったのが、この日の演奏では2楽章以降だった、という。しかし、この楽曲の終楽章はやはりとんでもない楽曲であって、それまでの均衡が一旦すべてバラバラにされ、4つの楽器によるガチバトルが展開され、最も複雑な箇所では、何をやってるのかまったく分からない、でも、カッコ良くて、なんかスゴいことしか分からない、という様相を示していた……。聴取される音楽ではなく、書かれた音楽の極地。





内田光子も実演を聴くのが今回が初めて。上下黒のシャツ&パンツにゴールドの布をキャッツアイのようなスタイルで巻いて登場していて、まず思ったのが細い! ということ。驚異の還暦過ぎであり、あと20年は現役をやっていてもおかしくないだろう、普段何食って生活しているんですか、という驚きは演奏を聴いたら一層深まるわけで。これまでに色んな演奏家を聴いてきたけれども、彼女の演奏ほど「うわッ、CDと同じだ」と思わされることはなかった。たとえ彼女がシューマンの五重奏を録音していなくとも、既に聴いているのではないか、と錯覚させられるほど「内田光子の演奏スタイル」が確立されており、そしてその形式を私のなかに染み込んでしまっているのである。ゆえに、その演奏は想定の範囲で常に収まり得るものであるのだが、気がつくと自分が内田光子を聴いている、のではなく、自分は内田光子の音楽のなかに入ってしまっているような、ワンダフルな演奏が展開されているのだった。





誰が共演者であっても彼女のスタイルはブレない。共演者とは相性次第といったところがある。ハーゲン・クァルテットとは特別に相性が良いとは思えなかったが、それはそれ。内田光子の「あの」音、「あの」アゴーギク/ディナーミクによるシューマン、としか言い様がない演奏だった。しっかし、シューマンってどこをどうしてもシューマンの音楽だよなあ、という非常に強い記名性が、彼女の音楽の記名性とも重なるなるけれど、ピアノ五重奏なのに、中身は交響曲のつもりで書いているに違いない、こんなの聴こえねえだろ、と思わずツッコミたくなる意味不明な弦の刻みなどが楽しい。これに一度ハマッてしまうと、シューマン良いよねえ、となってしまうから不思議な作曲家である。





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