スキップしてメイン コンテンツに移動

荒俣宏 『決戦下のユートピア』:苦境のなかにも文化あり、戦争のイメージに生活の色を加える名著




決戦下のユートピア (文春文庫)
荒俣 宏
文藝春秋
売り上げランキング: 119039



「戦争はツラい」、「戦争は悪だ」、「戦争は厳しい」という教育を子どものころから我々は受け続けている。それの良し悪しを問うわけではない。けれども、ときどき思うのは戦争下の社会のイメージはあまりにも第二次世界大戦末期の困窮と終末感と結びつきすぎているのでは、ということだ。かのクラウセヴィッツは『戦争論』において「総力戦」という国家が一丸となって戦争という事業に取り組むコンセプトを提出した。我々を支配する戦争のイメージはこの総力戦のイメージと重なるだろう。だが、それが本当に適用されるのはふたつの世界大戦だけであって実はそれは特殊なイメージだったのでは、と思うのだ。特に3月に地震が起きてからの生活に戦争のメタファーが用いられるようになると、イラクで戦争をやっていたアメリカの生活というのもこういう感じだったのでは、と想像してしまう。国が戦争をやっていても日常はあるし、文化もある。戦争をやっているからといって、すべてが例外におかれ、生活が一変してしまうわけではない(もちろん一変してしまう人もいる)。





荒俣宏の『決戦下のユートピア』は、第二次世界大戦中の日本における文化や生活にフォーカスを当てた歴史読み物だ。荒俣は高見順や永井荷風が書き残した日記や、当時の婦人雑誌から、戦争イクナイ!教育からは伺いしれない生活の模様を描こうとする。





例えば、ファッションの面では銃後の女性は何を着るべきか、について巻き起こった論争が取り上げられている。動きやすく、さらに使用する布地が少なくて済み、かつ、女性の美意識を満たす衣服とはなにか? 「もんぺ」は古くから日本に存在していたものだったが、こうした要求によって注目を浴びるようになった、と荒俣はまとめる。しかし、これもやはり人気がなく(もんぺは上着を和服にすると裾を巻き上げなくてはならず、腰のあたりに膨らみができてみっともなくなる。このため、もんぺを着るときは上着はシャツやブラウスのほうがキレイに着こなせる、という不思議な衣服だった。そもそも、農耕服みたいなものなので都会の女性には敬遠されていた、という)「標準服」という服を仕立てるときはこういうものにしなさいよ、という見本としてしか権力によっては制定されされなかった。これは女性の美意識が権力を困らせた、という大変面白い例である。標準服としてもんぺが採用されてからも、高級布地を使った「流行性をそなえたもんぺ」を作る女性もいた、というのだからますます面白い。





戦争下の「臣民」は、権力によって洗脳されるように抑圧され、従属するしかなかった……などという灰色のイメージに、本書は、風俗にいきる人間らしさという色彩を加えるようである。後半は大戦末期の混乱が伝わってくる内容で、前半のように面白い可笑しく笑えるようなトーンが薄れていくのだが、これもこれで面白い。社会がいよいよもって打つ手なし、絶望的で、もう終わりを待つしかない、という状況になると、どういった思想が持ち上がってくるのか、それを考えるヒントになる。当世に生活する人間として、こうした過去の空気を知ることで、現在の空気の変化にも敏感になれるのではないか。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...